差しだされるアンパン一片

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尾崎豊の「シェリー」とは何か

まえがき

尾崎豊」をご存知だろうか。今の40代以上の方なら、まず知らない人はいないだろう。彼は、1980年代(僕はその時まだ生まれていない)に活躍し、当時のティーンエイジャーや若者を魅了したが、26歳の若さにして突然亡くなった、伝説のシンガーだ。代表作には『15の夜』や『卒業』などがある。

 

そんな彼の曲で、僕が大好きな曲の一つに『シェリー』がある。カラオケに行けば必ず歌っているとおもう。そんな『シェリー』を先日、韓国人の友達が聴いてみたいと、僕にたずねてきた。というのも、去年に日本にきて一緒に遊んだとき、カーステレオで流していた尾崎の曲が、頭に残っていたようだ。

 

ただ、「尾崎豊」というアーティスト名は覚えていなかったようで、分かりやすい『シェリー』という曲名だけ、微かに記憶にあったらしい。彼は、自身の記憶の残滓をたよりに、いろいろネットで調べていたらしいが、ついには見つけられず、僕に聞いてきたようだ。尾崎が海外ではほとんど知られていないのは、惜しい気もする。

 

そんな友人に『シェリー』を紹介した後になって、僕ははじめて「尾崎豊」を聴く人は、どんな風に感じるのだろうということが気になった。いつもとは違う気持ちで『シェリー』を聴いてみたくなった。すると不思議なことに、いままで何度聴いても気づかなかった、シェリーの側面が見えてくる。僕のフレーミングがかわった瞬間である。

 

シェリー」とは母の愛である

 以下の歌詞は、『シェリー』の一部分の引用だ。

シェリー優しく俺をしかってくれ 

そして強く抱きしめておくれ

おまえの愛がすべてを包むから 

この歌詞をそのままの意味で解すならば、このシェリーとはどんな人物だろうか。自分の彼女だろうか。いな、僕は違うと感じた。シェリーを彼女とするよりも、もっと適した存在がいることに気がついた。それは、「母」である。

 

シェリー』という曲全体で表現されている、理想と現実との狭間でもがき苦しみながらも、理想を捨てきれない若者を、それでも支え続けられる人物像として、彼女という存在では非常に重荷である。彼女にもまた彼女の人生があり、現代の(おそらく当時も)自由主義的恋愛の時代において、一人の彼氏のために、ここまで献身的に接せられる彼女は、どれほどいるのだろうか。またその行為は、その彼女にとってどれほど価値があるだろうか。これらの点から、シェリー像の最適存在を彼女とするのは、不適切であるといえる。

 

以上の「重たい」若者を支え続けられるポテンシャルをもつ、唯一の存在は「母」である。母という存在なら、苦しむ我が子を支え続けられる気概をもてる可能性が、ぐんと高まる。なぜなら母親にとって子とは、自分の人生の選択の結果であり、かつ、他に選択肢のないオンリーワンの存在だからだ。誤解を与えないために断っておくと僕は、母親は以上のような認識をもたなければならない、と主張しているわけではない。僕がいっているのは、あくまでも、現代の世間一般に思われる母親像の一部にすぎない。

 

なぜ「シェリー」なのか

「なぜシェリーなのか」と書くと、なぜシェリーという欧米人女性っぽい名前なのかという話になると思われそうだが、今回の論点はそこではない。上述の議論によって、シェリーとは母親の愛であるという話になったが、ではなぜ『シェリー』では「シェリー」という彼女感漂う人物名が採用されているのだろうか、というのが論点である。

 

そもそもの話として、尾崎豊の多くの曲に通底している、ある概念が存在する。それは、「自己の自立」である。この概念は、『卒業』や『15の夜』、『十七歳の地図』などに顕著にあらわれる。ここでいう自立とは、経済的自立というより、本質的には精神的自立である。『卒業』では、学校というコミュニティと「自己の自立」との共生の葛藤が歌われ、『15の夜』では、15歳の「自己の自立」のための拙い行動が歌われる。

 

では、そんな「自己の自立」と「母親」とはどのような関係にあるのだろうか。結論からいうと、この二つは対局に位置する。鳥のヒナがいづれ親鳥から巣立っていくように、人の子もまた、自分の親から巣立っていくのだ。そして人は、人の巣立ちを自立と呼ぶ。このような関係性にあって、『シェリー』の歌詞のなかで母親像が前面にでてしまうと、「自己の自立」という根本概念と矛盾してしまうことになる。そこで次の選択肢として、彼女という像が前面に打ち出されることになるのだ。

 

彼女に頼ることは許されるか

彼女に頼ることは、「自己の自立」という尾崎の根本概念と矛盾しないだろうか。尾崎の「自己の自立」という概念は、精神を他者から完全に独立させることではない。ここでいう自立とは、いわゆる大人からの独立。ベタなところでいうと親や教師などの、年長者からの精神的自立である。

 

そして彼女という言葉からイメージされる、その女性の年齢は、付き合っている男性と同年代である。もちろん年の差カップルも存在するが、割合としては同年代が多数派だろう。そうであるなら、彼女に精神的に頼ることがあっても、尾崎の主張する「自己の自立」のニュアンスとは矛盾しなくなる。

 

よって「シェリー」とは、生の苦しみや葛藤をいだく青年の心の支えとなる母性の象徴として生み出された、彼女のような雰囲気をまとった、奥深い存在なのである。

 

まとめ

このように『シェリー』を聴いてみると、男というのは、ガールフレンドや妻に母性をもとめる生き物なのだろうか、と考えてしまうし、実際そうなのだろう。だが、不安を感じるのは男だけではなく女もまた同じなのだから、男もまた母性をもって、不安を感じる彼女や妻を支えなければならないのだ。母性≠女性である。

 

もちろん、これらは僕個人の考えであり、他の人にはその人なりの考えや解釈が存在するだろう。あくまでもその上で、こういう考え方もあるのかという程度に考えてくれれば、こちらも気が楽というものだ。